Posted on 2025年3月11日
by 河野順一
東日本大震災 14年前の「未公開映像」分析 「引き波」の脅威と新たな仮説【バンキシャ!】
未だ新たな映像が見つかる。
ひき波を記録したこの映像は、
これまでの津波の常識を覆すほどのものだという。
ひき波の強さ、襲ってくる時間、こうしたビジュアルな記録を
丁寧に解析することで、
次の災害から命を守る一助になる。
このように考えると、何事も検証することが大事であることが分かる。
東日本大震災の後、不幸にも原発事故が起きた。
津波も、原発事故も、想定を超えていたというが
果たして、それは本当なのかと訝しく思う。
あれから14年の歳月が流れた。
震災時に誕生した子供らは、中学2年生になった。
当時、私は東京の連合会館の5階で、
就業規則セミナーの講義をしていた。
御多分に漏れず、床が揺れた。尋常でない、激しい揺れだった。
受講者の皆さんの身を案じ、当然セミナーはそこで中止。
エレベーターは止まっていたので、
全員、階段で地上に向かった。
受講者の一人は、遠くは八戸から参加していて、
その後、帰宅に困難を極めたという。
私とて、常宿の帝国ホテルに車で向かうのに、
通常20分もあれば、十分到着する距離が、
2時間半かかったという渋滞ぶりだった。
未曽有の天災に、被災地のみならず世の中が混乱し、
誰もが正しい情報を求めた。
よって、震災直後には、その関連書籍を多く読んだものだった。
ひき波に関しては、
「三陸海岸大津波」が実にリアルだった。
この作品は、小説家吉村昭による中編ルポルタージュであり、
初版は中公新書で、1970年(昭和45年)に
『海の壁 三陸沿岸大津波』の題名で刊行されたものだ。
なお、国土交通省東北地方整備局 釜石港湾事務所のホームページでは、
「歴史に残る大津波の記録は、869年、1611年、1616年、1676年、1696年、1835年、1856年、1896年(明治29年)、
1933年(昭和8年)と続きますが、ほかにも大小数多くの津波が、三陸海岸に襲来しています。
明治29年の大津波は、6月15日の旧端午の節句の夜に起こりました。最初の地震が7時32分に発生し、
その後、釜石沖約200キロを震源(マグニチュード8.2)とする大小11回の地震が約1時間に渡り断続的に続きますが、
8時2分に発生した地震がもっとも大きく、それから約20分後に海水が大きく引きはじめ、やがて三陸海岸は近代史上最悪の巨大津波の襲来を受けます。」
とある。
先の書籍におけるルポルタージュでも
特に、明治29年(1896年) 明治三陸地震の項は迫力があった、
海水が急激に引いた後にすさまじい轟音と共に
黒々とした波の壁が押し寄せた。
アッという間に人や家屋は波にのまれ、
2万6千人以上の人が亡くなり、約1万戸の家屋が流出したとされる。
海水が急激に引いた後、干潟となった海底には、
遠くまで、多くの魚がピチピチと跳ね、
人々は我先にと、狂喜乱舞し、バケツ一杯、
持ちきれないほどに、拾い集めていた姿が描かれていたと思う。
その後の顛末は、知ってのとおりである。
これだけ頻繁に大津波が来ている地域において、
津波の襲来が想定外だったと言い切れるのか、極めて疑問である。
少なくとも、14年前には、小説家吉村昭は実際に体験した人たちのインタビューから、
津波を検証し、それをまとめた書籍を上梓し、
人々に警鐘を鳴らしていたではないか。
「天災は忘れたころにやってくる」
「三陸海岸大津波」は、同じく吉村昭氏の著作である、
「関東大震災」とともに、定期的に読みたくなる良書だ。