私は自分の講義や著書の中で比喩を多用する。
一般の人には縁遠くわかりにくい法律の話を、身近でわかりやすい例に置き換えて説明することに、労働法の伝道師としての真骨頂があると思っているからだ。
講義や著書では例え話の力を多いに借りる一方で、その中でどのような例え話を用いるかについては非常に神経を使い、注意を払っている。
例え話は理解すべき対象との距離を一気に近付けてくれる作用がある反面、本来同視してはならないものまで、同視させてしまい、誤解を招く副作用もあるからだ。
ここでも例え話を用いよう。
ある小学校の生徒が、同じクラスの子と口喧嘩の挙句、感情をおさえきれず殴ってしまった。
暴力をふるわれた子の親が、殴った子の親に対して
「あなたの子は暴力団みたいね」
と怒りをぶつけたとしよう。
大切な子どもを殴られた怒りはわかる。
しかし、殴った子を暴力団呼ばわりまでするのは、さすがに行き過ぎだろう。
暴力団と、殴った子とはかけ離れた存在である。
いささか前置きが長くなった。
自民党の村上誠一郎元行革担当大臣が、安倍政権の姿勢をナチスの例を持ちだして批判したという。
これは非常に危険だ。
安倍政権が、ではない。
批判のための例え話として、安易にナチスを用いることだ。
たしかに、ナチスは民主主義の中から権力を握り、民主主義を崩壊させ、あまりにも多くの人々の生命と自由を奪う、人類史上最悪ともいえる所業を行った。
このようなことが二度と繰り返されないよう、民主主義について学ぶ時、ナチスの存在に触れることは必要不可欠と言えよう。
とはいえ、ナチスを例え話として持ち出すことは、慎重の上にも慎重を心がけなければならない。
ナチスの全権委任法は、ドイツの民主主義を回復不可能なほどに破壊した。
では、集団的自衛権に関する憲法解釈変更は、民主主義を回復不可能なほどに破壊するものなのだろうか?
その答えは、集団的自衛権に関する憲法解釈に関していかなる立場をとろうとも、否である。
安倍政権の姿勢をナチスの例を引き合いに出してまで批判することとは、安倍政権を民主主義を回復不可能なほどに破壊する存在として危険視することと同じである。
それは、我が子を殴った子を暴力団扱いするような親と同じ、あまりにも乱暴な例えであり、批判としては行き過ぎだろう。
安倍政権の憲法問題に対するスタンスが性急すぎるという批判はされて然るべきだろう。
安部首相が立憲主義というものを根本的に理解しているかどうかについても疑問を抱きたくなる面がある。
しかしながら、安倍政権の憲法解釈変更に関する姿勢は、立法や司法の場で、さらには、次の国政選挙において、その解釈変更の正当性について検証がなされるのが筋である。
もちろん、その検証には自民党の党内議論や野党の議論、世論も大いに活性化することが必要である。
しかしまた、そこでの議論も節度をもった表現でなされるのが筋だ。
その筋を通すことことこそが、ナチスと同じ愚を防ぎ、健全な民主主義社会を維持するために何よりも必要なことなのである。
かつて、天皇機関説事件において、美濃部達吉博士に対して「天皇を機関車や機関銃に喩えるとは何事か!」という、美濃部憲法学を全く理解していない批判がなされ、暗い時代への歩みが加速して行った例もある。
民主主義の危機には敏感になりつつ、健全な表現での批判がなされる社会でなければならない。
