Posted on 2024年7月26日
by 河野順一
東北では山形県や秋田県で記録的な大雨に見舞われている。
多くの川が氾濫し、他住宅地や田畑が冠水し、
救助要請を受けた警官二人が、
パトカーごと、水に流されたというニュースも入ってきている。
自然の驚異に、人は為すすべもない。
予防しか打つ手はない。
身の安全を最優先に、被害を少しでも食い止めていただきたい。
早く日常の生活に戻れるよう、お祈りする。
さて、こうした洪水は、昔から何回となくくりかえされている。
治水工事が行き届いていなかった昔は、なおさらだ。
本日の主人公、「二宮金次郎」も、洪水に人生を翻弄された一人だ。
二宮金次郎といえば、一昔前まで、
小学校には必ずと言っていいほど銅像があった。
薪を背負い、本を読んでいる姿は「謹厳実直」の象徴である。
「二宮金次郎」は天明7年(1787)、
相模国栢山村(今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれた。
再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落。
過労により両親は亡くなり、
兄弟はばらばらに親戚の家に預けられたという。
そこで、金次郎は菜種油で火をともし、本を読んでいたところ、
叔父からこっぴどく怒られる。
その理由は、「百姓に学問は必要ない」。
やがて、金次郎は叔父から独立して実家の再興に取り掛かかった。
朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、
その間、余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、
先人の教えを理解しようと努力した。
そして、余力が出ると、少しずつ田畑を買い戻し、
一所懸命努力して24歳までに一家を再興した。
…というサクセスストーリーである。
物語にはまだ先がある。
お家再興の事実を知った小田原藩士服部家から、
財政の建て直しを頼まれ、これも達成することができた。
その功績が広まり、
今度は小田原藩の分家にあたる
桜町領(栃木県二宮町)の再興を頼まれるなどして、
大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、
生涯に600以上の村々を立て直したといわれている。
内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、
19世紀末、欧米諸国に対して
「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と
苦難の時代を救った偉人として尊徳翁(「金次郎」は、後、「尊徳」に改名)
は紹介されている。
この金次郎が大切にした考え方が、
「積小為大(せきしょういだい)」である。
毎晩勉強していた金次郎は、
読書をするための油代を稼ぐため、荒地に菜種を植え、
たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れに成功した経験や、
捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、
秋には一俵の籾を収穫した経験をふまえ、
自然の恵みと人の力の素晴らしさを知ると共に、
小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学んだという。
自然の流れをうまくとらえて、その摂理に身を任せつつ、
コツコツ努力をして、積み重ねること…
これがのちに大きな成功に繋がっていくということになる。
また、「五常講」という制度を作ったことも知られている。
この「五常講」とは、藩の使用人や武士達の生活を助けるために、
お金を貸し借りできる制度であり、
今でいう、信用組合と同じ組織と位置付けられている。
お金の貸し借りの旋回の過程で、
「仁」の心をもってそれぞれの分度を守り、
多少余裕のある人から困っている人にお金を推譲し借りた方は、
「義」の心をもって正しく返済し、
[礼」の心を持って恩に報いるために冥加金を差し出すなど心を配って人に接し、
「智」の心をもって借りた金を運転し、
「信」の心を持って約束を守る、
すなわち「仁義礼智信」の「人倫五常の道」を守ろうというのである。
(出典:童門冬二 「二宮金次郎」)
この考え方は、論語に通じるところがある。
孔子は、五つの徳目(より良い人となるための、行動指針)=人倫五常の道
すなわち、「仁義礼智信」を説いており、それぞれ、
仁・・・思いやり、慈しみ
義・・・人道に従う事、道理にかなう事
礼・・・社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従う事
智・・・物事を知り、わきまえている事
信・・・言葉で嘘を言わない事、相手の言葉をまことと受けて疑わない事
の、5つの徳を積むことが大切であるとする教えである。
尊徳翁は、これを「五常講」に取り入れている。
偉人は、どのような境遇でも、結果を出すところにその凄さがある。
偉人の徳を学習しつつ、さらなる「徳の習得」に励みたい。