Archive for 河野順一の提言

会員の皆さんの、「無関心」が「執行部の暴走を生む」!

「倫理研修強制受講の廃止」と、会役職者の「直接選挙制への移行」について

 私は、予てから社労士会が受講を強制する「倫理研修」につき、その扱いに疑問を感じておりました。
 何故なら、倫理とは内心の自由であり外から強制されるものではありません。
 ましてや、倫理研修を社労士会会則で規定し、参加しない場合の罰則規定まで設けているのは、全くもって論外と言わざるを得ません。
 私はこの無用な倫理研修を廃し、連合会を時代の流れに適応できる組織へ改革するべく、「建議書」ほかを社労士会会員の心ある皆様に送りました。

 現在、連合会は最高顧問、会長に権限が集中しています。
 上記「倫理研修の強制」のみならず、人事権をはじめとして、会の運営すべてにおいて、終身連合会最高顧問と、
その傀儡といっても過言ではない、連合会会長が影響を及ぼす構図はおよそ民主的な自治とはかけ離れています。 
 私たちは現状に無関心であってはならず、またこの執行部の暴走を許してはなりません。
 連合会の改革のため、特定の個人に権限が集中しないよう、私は会長の直接選挙の導入を提言しています。
 会員の皆様におかれましては、是非、直接選挙の導入に向けて声を挙げていただきたく、これをお読みになられた皆様からも、ご自身の所属される都道府県会の会員に対して発信していただければ幸いです。

 心ある会員の皆様からは、前記「建議書」と、「直接選挙制への移行」につきご賛同を数多くいただいております。
 中でも、掲載の了解をいただいたX様からの、下記お手紙は、正に私の思いを最も強く代弁していただいており、改革への闘志をますます強くしているところであります。
 この思いは会員の皆様全体の思いとして大きくしていかなければなりません。
 お手紙のなかで、X様が所属する某県会でも意味のない研修があったとの記述がありましたが、強制による倫理研修の廃止に向け、
また、人権感覚が欠落した倫理研修を平然と行い続ける執行部が権限を思いのままにしている現状を打破すべく、直接選挙への導入を、皆様にも是非、情報発信していただきたくお願いするものです。

【某県会X様からのお手紙】

「河野先生ご無沙汰いたしております。

 先日は、倫理研修等に関する提案書をご送付いただき、ありがとうございました。
 熟読させて頂きました。小生も以前から会の研修についてはいささか疑問を持っておりました。
 先生の講義で、権利と義務、強制と指導について理解したつもりでしたが、改めて再認識させて頂きました。
 研修は、自分が知らないことや、十分な認識がない場合に自己研鑽のために受けるものであって強制されるものではないと、私は思っていました。
 先生のいわれるように、倫理とは個々の常識であって、その職業に必要な常識ややってはいけないこと、やらなければ成らないこと、守らなければ成らないこと、
であり労務士資格の保持者であれば当然認識していることであって、今さら釈迦に説法とまでは言いませんが、役員の倫理研修が必要かと思います。

 たとえはおかしいかもしれませんが、中学生や高校生が、高校・大学の入学試験を受けるか受けないかは個人の自由であり強制されるものではありません。
ましてや、受験しなかったら罰則を科すなどとんでもないことです。
 受験するとしても一定の講座やセミナーを受けなければ受検資格が無いとされるならば、それはおかしいかと思います。
 先日、運転免許証の更新がありましたが、75歳以上の高齢者講習を受講して試験を受け一定の点数がなければ更新されないこととなるため、
受講し無事更新できましたが、この講習は道路交通法に定められた強制であると認識しております。

 また、社会保険労務士試験の受験において、法第8条の受験資格で、学校教育法による大学において学士の学位を得るのに必要な一般教養科目の学習を終わった者又は同法による短期大学若しくは高等専門学校を卒業した者。
 と規定されておりますが、家庭の事情等で中学を卒業し社会人となってから、独学や塾で勉強し能力を磨いている人もいます。なぜ国の義務教育しか受けていない者は受験資格がないのでしょうか?
 国民として最低限の教育をとの趣旨で中学までの教育を義務化しているのです。
 憲法第11条では、基本的人権を、12条では自由及び権利の保持責任とその濫用の禁止、13条では個人の尊重が定められており、個人を尊重し権利を保障しています。
 国家試験である以上なぜ受験資格を設けるのでしょうか。国家試験の目的は、その業務をするために必要な能力を有するのかどうかを測るために実施するのではないでしょうか。
 だとすれば、義務教育のみの終了者であっても受験に値するような能力を持っている者には、学歴に関係なく公平に受験資格を与えるべきではないかと常々思っております。

 最近某県会でも、意味のない研修があり、講師も行政の職員の場合は資料を読み上げるだけで、肝心な箇所の説明はなされず、やたらと法第何条によりますと条文番号のみをうたう輩もいます。
先日もこの講師に対して図らずも「読み上げるだけであれば資料をもらって自宅で熟読したほうが良い」と、嫌みを言って途中退席をしてしまいました。
 また、会として、くだらないシールやメモ帳やポスター等を労務士制度のPR用品であると無駄な予算を使って作成されるが、全く利用価値がなく最後はごみ箱行きとなっています。

 くだらないことを書きましたがお許しください。
 先生の平成31年×月×日、某所でのセミナー、今回は都合がつきません。
 先生にお会いしたく、5時以降のお付き合いはさせて頂きたいと思いますので、是非お誘いください。

平成31年4月1日
社会保険労務士  X 」

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名誉のために闘う

記憶遺産制度見直し検討=事務局長「透明性足りぬ」―ユネスコ(時事通信)

名誉のために闘う。名誉のために主張する。
これまで何かと事を荒立てず、
融和的に、比較的丸く収めにかかっていた日本の姿勢を
きっぱり断ち切った。
理不尽は、理不尽。
制度の不備を強固に指摘し、
自国の国益を死守する気概が、ユネスコに見直しを促した。
無関心が、一番よくない。
傍若無人な態度を貫く非常識な相手に対しては、
断固主張すべきを主張すべきである。

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理不尽かつ無礼な態度への対処とは(1)

相手の理不尽かつ無礼な態度にいかにして対処すべきか。

書物をひもといて、その答えを探してみた。

論語の「憲問」第十四の36に以下のようなくだりがある。

或曰 以徳報怨 何如 子曰 何以報徳 以直報怨 以徳報徳

「あるひといわく、とくをもってうらみにむくゆる。いかん。しいわく、なにをもってとくにむくいん。なおきをもってうらみにむくい、とくをもってとくにむくいん。」

ある人が孔子に尋ねた。

「徳をもって怨みに報いたらいかがでしょうか?」と。

孔子は答えた。

「そんなことをしたら、一体何で徳に対して報いることができるのだ?
正しさをもって怨みに報いるべきであり、徳に対してこそ徳に報いるべきなのだよ」

おそらく、ある人の質問は孔子に認めてもらおう、褒めてもらおうと期待してのことだったのだろう。
「徳」を「寛大な心」くらいの意味に捉え、「怨みに対して寛大な心を示せば良いのでは」と質問したのかもしれない。

しかし、孔子は「徳」を重んずるがゆえにそのような安易な考えを言下に否定した。
ここで、「徳」について詳しくは触れないが、儒教の「五徳(五常)」とは「仁義礼智信」のことである。
これだけでも「徳」という言葉の深さが理解できるだろう。

孔子は「徳」が大切なものであるがゆえに、それは「徳」に対してこそ報いられるものなのだと言ったのである。
「怨み」に「徳」で報いたら、だれかに「徳」を示されたとき、返すものがなくなってしまうではないか、ということである。

「怨み」には「直き」、つまり正しさをもって対処せよと孔子は言う。
正しさとは何か、それは公平無私の判断である。

悪に対し、憤りを感じ、悪を憎む、これは人間の素直な感情である。
理不尽や非道に対し、まずもって寛大な心で報いろというのでは、人間の素直な感情を無理に押し潰し、歪めてしまう。
それは新たな「怨み」を生むばかりである。

憤りの心、憎しみの心は、悪に対する反作用である。悪に憤り、悪を憎むのは人として当然である。
だが、人はその心を、正義という公平無私なものに昇華させて対応しなければならない。
それが、孔子の言う「直きをもって怨みに報いる」の意味だろう。

出版社に対して行われた、表現の自由を根本から否定し、生命というこの上もない貴重なものを奪ったフランスでのテロ行為に対して、各国の人々は連帯して怒りを共有し、正義の実現を訴えた。
300万人を超えた人々の行進は、「怨み」ではなく「直き」というものを身をもって示したのである。

理不尽や非道に対しては、まず正義をもって報いなければならない。

では、正義とは何なのか。

この続きはまた語ることとしよう。

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非正規雇用者が2000万人を超える

11月の非正規雇用、初の2000万人超 完全失業率は3.5%横ばい(SankeiBiz)

日本の人口は約1億2700万人。
そのうち生産年齢人口(15歳から64歳)は約7900万人。
今回発表された労働力調査(平成26年11月分速報)では、非正規雇用者が2000万人を超えた(約2012万人)ことから、働くことが一般的に可能とされる人々の4分の1強が非正規雇用者であるということになる。
さらに、労働力調査の数字を追ってみると、就業者数は約6371万人、うち雇用者数は約5637万人である。
雇用者の3分の1強は非正規雇用者であるという事実。
しかも非正規雇用者は前年同月より48万人の増加である。
一方で、正規雇用者は前年同月より29万人減少して3281万人である。

この数字を持って「アベノミクスは効果が出ていない」などと断じるのは早計に過ぎよう。
長く続いたデフレ不況から、簡単に脱却できるはずもない。

ただ、正規雇用者と非正規雇用者の数を目の当たりにして、
「このままで良いわけがない」
という印象を抱かれる方々がほとんどあろう。

非正規雇用には、使用者にとっての「雇用の安全弁」、労働者にとっての「多様な働きの選択肢」といったメリットが存在する。
その意味で、非正規雇用という形態そのものが悪であるわけではない。
しかしながら、功利主義的発想のみで企業が労働者を扱えばどうなるだろうか。

故松下幸之助氏の唱えた「7精神」を紹介しよう。

一、産業報国の精神
一、公明正大の精神
一、和親一致の精神
一、力闘向上の精神
一、礼節謙譲の精神
一、順応同化の精神
一、感謝報恩の精神

これは松下電器産業からPanasonicに名を変えた今でも受け継がれているそうである。

この「7精神」は素晴らしく、異を唱える者はいないだろう。
しかし、この精神を企業理念とするとき、全従業員の心にまで本当に響くものとなるか否か。
ここに心を砕かなければならない。
非正規雇用者がこの「7精神」を前にしても、
「この先、自分はこの会社にいられるのだろうか」
という不安を抱えたままでは、愛社精神が生まれたり「産業報国」といった言葉を受け入れる気持ちになったりするはずもない。

企業は熾烈な国際競争の只中にあり、日本を代表する大企業であるPanasonicですら、松下幸之助氏の家族的経営スタイルを維持できず、リストラを進めざるを得なかったのは事実である。
この厳しい状況を精神論だけで切り抜けろ、などというつもりはない。
だが、「経済はマインド」である。
生産者・消費者、そして政府…経済に携わる人々の心の持ちようが、景気に大きな影響を与えるのも事実である。
政府も「キャリアアップ助成金」などで、有期雇用から無期雇用への転換を促すなど、マインドを刺激する施策の数々を打ち始めている。
労働者も、己が愛社精神を発揮し、人生の目標として打ち込める職場を求めているはずである。

広島カープに復帰することとなった黒田博樹投手は、21億円を超える年俸のオファーを蹴って、4億円で広島に復帰した。
それはまさに広島カープという球団への「愛」がなせる業であろう。
広島カープも、黒田投手がかつて着けていた背番号15を空き番号とし、毎年黒田投手の復帰を待ち続けていた。
これも「愛」である。

「ラブイズアクション」

徹底した行動から愛が生まれる。
各企業は、今こそ徹底した行動で、非正規採用から正規採用への転換に向けて知恵を絞ってほしい。
その勇気と行動は、きっと従業員の愛社精神という「愛」を生み出して、生産と消費の活発化を引き起こすはずである。

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理念にブレがあってはいけない

理念にブレがあってはいけない。
たとえわずかなブレであっても、ご都合主義による理念の解釈を許してしまえば、いずれは大きな破綻に結びつく。
これは経営者、指導者だけに限った話ではない、
社員や部下もまた、理念を揺るがせにしてはならないことを肝に銘じなければならない。
不祥事を起こした組織は、多くの場合、その問題を起こした者が元から悪い人間だったわけではない。
「このくらいなら許されるだろう」と少しずつブレていった結果、大きな不祥事へと発展してしまったのだ。
だからこそ、たとえ愚直と言われようと、生きていく上で正直でなければならない。
何も頑迷固陋になれというのではない。
真面目に生きるということだ。
それは、自分に向けての言葉でもある。
理念は愚直に守る。

「良いことは良い、悪いことは悪い」

都合の悪いことに出会うたびにこの原点を変えていては、大きく道を踏み誤ってしまう。

理念を愚直を守っていれば、失敗したとしても、潰れたとしても、自然は放っておかない。
真面目に生きていれば必ず救ってくれる。
理念にブレなく進もう。

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餃子の王将、未払賃金2.5億円

餃子の王将、未払い賃金2.5億円 是正指導受け判明(朝日新聞)

詳細な事情が分からない段階で、個別の企業についての軽々なコメントは控えるが、
「残業代請求バブル」は過ぎ去ったとしても、残業代問題が解決したわけではないということだ。
飲食業に限らず、今後ますます人手不足が顕在化してくると、残業代の問題もそれに比例して生じるようになる。
残業代請求に関する諸問題を、もう一度勉強し直す、今が最適の機会かもしれない。
手前味噌かもしれないが、残業代問題に関する拙著をぜひお読みいただきたい。
本ブログでも、日を改めて紹介することとしよう。

行政書士法改正

行政書士法の一部を改正する法律案(参議院)

参院本会議で全会一致で可決されたとのこと。
今後、「特定行政書士」等に関して各種の整備が行われていくことになるが、行政に対する国民参加というより大きな視点で捉えていく必要があるだろう。
士業は権力に対し国民がアクセスし、その権利を守るためにあるという原点を忘れてはならない。

司法制度改革の失敗に思う

法科大学院の今春定員割れ9割超 2年連続、学生離れ鮮明に(東京新聞)

司法制度改革の一つとしてはじまった法曹年間3000人養成のための法科大学院制度。
理念は崇高でも手段が大失敗した例として歴史に残るレベルである。
すでに政府は昨年、「年間3000人」という目標を撤回している。
この制度は結局、既得権のある弁護士には不評であり、若手の弁護士は稼げない、受験生は金と時間を相当に捧げても合格率が当初より下がる超ハイリスク、各大学は学生が集まらず募集停止、そして弁護士を使う一般人は質の低下にとても悩まされる、という、何とどこにもメリットがない凄まじい制度である!
ただ、社会保険労務士の諸君には用心されたいのが、こうしてロースクールで学んだ学生が隣接法律資格になだれ込んでくるということだ。
私がセミナーで口うるさく言う、法学や憲法民法刑法といった基本的な法律の大切さを体系的に学んで来ているのだから、強力なライバルになるだろう。
だからこそ、私のセミナーや著作でしっかりそうした法学や法律の体系と、それを実務に立体的に応用する術を学んで欲しい。
ロースクールに入るより遥かに安い上に、短期間に実力がつくのだから。

行政不服審査法改正案

政府が今国会に行政不服審査法の改正案を提出している。
1962年の制定以来、数々の問題点が指摘されつつも、大きな改正がなされることなく今日まで来た行政不服審査法だが、さすがに政府も重い腰を上げたようだ。
改正案の概要については総務省のサイトを参照してもらいたい(行政不服審査法関連三法案の概要はこちら)が、

1.公正性の向上
2.使いやすさの向上
3.国民の救済手段の拡充

の三点を中心に、制定後50年ぶりに抜本的見直しを行うことになる。
中でも、不服申立て可能な期間を、従来の処分後60日から3か月に伸ばすことは高く評価できる。
また、不服申立手続の簡素化(「審査請求」に一元化し、「異議申立て」は廃止)とともに、裁判所に直接救済が求められるようにするなど、随所に改善の手が加えられている。
さらに、処分に関与しない職員である審理員による審理が導入され、第三者機関によるチェックが行われるという。
行政不服審査法の改正と同時に、行政手続法も改正され、行政の法令違反に関して国民が是正を求めたり、法律の要件に適合しない行政指導について最高を求めることもできるようになる。

私のセミナーをこれまで受講されてきた方々ならすぐに思い当たることだろうが、これらの改正点は日頃から、労働基準監督署などの行政官庁を相手にすることの多い社会保険労務士にとっては、必須の知識となる。
行政不服審査法と関連法案の改正がなされた際には、セミナー等でわかりやすく改正点について伝えていくこととしよう。

まずは、今国会での成立がなるか見守りたい。

「残業代ゼロ」産業競争力会議が提言へ

「残業代ゼロ」一般社員も 産業競争力会議が提言へ(朝日新聞)

まだ産業競争力会議による提言がこれからなされるという段階のニュースではあるが、いずれ労働基準法および関連法規の改正がなされる可能性も高いのではないだろうか。
注目を要するニュースである。
「残業代ゼロ」に関しては、年収1千万円以上の高収入の社員や、労働組合との合意で認められた社員を対象にすることが予定されているようだ。

そもそも、工場法を起源に持つ労働基準法は、制度疲労を起こしていることを、私は折に触れ指摘してきた。
第二次産業が社会の主役になろうとした頃に基本設計がなされた制度を、第三次産業が社会の主役になり、さらにはIT革命をも経た後(「第四次産業」「第五次産業」などという概念を提唱する方もいるほど社会は変化している)も延々と使い続けていれば、現実との不整合が随所に生じて当然である。
労働基準法の根本にある時給換算的思考も、工場の生産現場においてコンスタントに結果を生み出す労働にはフィットしても、不確実性の時代や、多様化した消費者ニーズに対応するクリエイティブな作業などには対応しきれない。
成長し、成熟した社会の現実に合わなくなった労働基準法という洋服を、無理矢理着ているのが日本なのである。
だからこそ、労働基準法は時代と現実を踏まえて見直されなければならない。
その際に忘れてはならないのは、労働基準法の原点である労働者保護の精神である。
労働者の権利を保護しつつ、企業の国際競争力・成長戦略にも配慮した法改正を実現することは容易なことではない。

ここで思い浮かぶのは「憲法」だ。
憲法もまた、制定後70周年が迫り、本来ならば時代と現実に合わせて見直しを図らなければならない時期に来ている。
もちろん、人権と民主主義の尊重という、立憲主義の根本精神は守られなければならないが、それを前提とした上で、各規定についての見直し論議を活発化させるべきであろう。
しかし、いわゆる護憲派の中には、憲法改正論議をすること自体に異を唱える者もいる。
そして労働基準法にしてもそうである、残業代問題について、時代に合わせた改正論議をしようとすること自体に、反対する者がいる。
憲法も労働基準法も、改正に関して全く同様の構造が存在するのである。
議論すら嫌われるのは、どう考えてもおかしい。

議論を避けることは、現実から目を背けることと同じだとなぜ気付かないのだろうか。
憲法で、表現の自由が保障されているのは、民主主義社会においては、その社会の成員である国民が、活発に自分の意見を言うべきだということでもある。
もちろん、何も言わない自由もあるが、自らが社会のあり方について活発に発言し提案することは、主権者としての責務であろう。
社会保険労務士もまた、労働基準法のあり方について活発に発言し、提案しなければならない。
ただし、それは現行の労働基準法とその運用について深く学び、社会の現実を知った上での発言でなければ意味がない。
たとえば、顧問先企業の残業代問題について、使用者と労働者双方のバランスを取りつつ、苦心惨憺して就業規則を作り上げていった、その経験に裏付けされた改正に関する要望・提言ならば、自ずと重みと説得力を持つだろう。

「残業代ゼロ」と聞いただけで、即拒絶反応を起こすようではいけない。
残業代という制度があると「残業代で稼ぐ」といった発想が出て、極端な場合、「5時から頑張ろう」などという社員を生んでしまうという弊害もある。
「残業代ゼロ」であっても、労働に見合う対価を労働者が得ていれば問題はないはずだ。
もちろん、ワークライフバランスの実現と、労働者の安全・健康への配慮から長時間労働の抑止策が講じられていることが前提だが。

いよいよ、真剣に議論すべき時が来た。
しかしそれは、現行の法制度と社会の現実を熟知した上でなされなければならない。
私もまた、セミナーや講演、執筆を通じて、現状の問題点と対応策、そしてその先にあるものを伝え続けていきたい。
皆が学び、活発な議論を交わした上で、真に時代に適合した労働基準法の改正がなされたならば、
「ブラック企業」などという言葉も自然と消えていくだろう。

社会保険労務士試験の一般常識対策

先日、65歳以上の人口が25%を超えたニュースについてブログで触れた。
このニュースは社会保険労務士試験の受験生は、一般常識、特に「労務管理その他労働に関する一般常識」対策としてしっかりと押さえておいた方が良いだろう。

・65歳以上の人口が25.1%
という点だけでなく、
・15~64歳の生産年齢人口が32年ぶりに8000万人を下回る
という点も要注意である。

(「社会保険に関する一般常識」対策としてもこの知識は押さえておきたい)

一般常識は対策が難しい面もあるが、今はインターネットで白書や統計情報などに簡単にアクセスできるという点では、かつてよりも対策がしやすくなったといえよう。
普段からニュースに目を通す癖をつけておくことは、今も昔も変わらぬ大事な一般常識対策である。
たとえ、目にしたニュースそのものが試験に出なかったとしても、社会保険労務士試験の学習全体の底上げをする効果がある。

有言実行の男

本田 セリエA初ゴール!“有言実行”12試合目で決めた(スポニチ)

有言実行、その陰には、並々ならぬ努力があることを忘れてはならない。
光は、陰と対峙して初めて輝くのである。

若い弁護士に期待したい

士業を長いこと営んでいる者にとって、「訴訟」との関わりは身近な問題である。
社会保険労務士を開業して40年、私は数多くの弁護士と数多くの事件処理で折衝し、ともに訴訟を闘い、勝利してきた。
そこで経験し、わかったことは、弁護士の質は、本当にピンキリであり、千差万別だということである。

私は弁護士に対しては、訴訟において依頼人の最後の砦となる立場であることから、常に敬意を払って接している。
しかしながら、その敬意に値しない弁護士も中には存在し、そのような弁護士に出会うたびに失望し落胆させられてきた。
もちろん、敬意を払うに値する立派な「法律家」としての弁護士も存在し、今現在もお付き合いいただいている。
しかし、「法律屋」とでも呼ぶべき弁護士のいかに多いことか。彼らは職業弁護士であり、初めにカネありきである。
それは、弁護士報酬が高いとなどいう意味ではない。腕のある弁護士が、期待通りの結果を出してくれるのならば、専門職として正当な報酬を要求することは当然である。

問題は、報酬を要求しておきながら、受託した事件への手間暇を惜しむ弁護士が多く存在するということである。
訴訟技術に長けてはいても、依頼人のために本気でぶつかってきて頑張ってくれる弁護士に出会えたら、むしろ幸運というべきなのが現状なのである。
確かに訴訟技術は大切であるし、なにも効率を度外視しろというのではないが、例えば不法行為における評価根拠事実を洗い出すのには、依頼人や関係者との相談をまめに行い、相当の時間がかかるものである。
そうした地道な行為を一つ一つ積み重ねている弁護士がどれだけいるだろうか。

若い弁護士は、その点、業界の悪習に染まっていない分だけ、必死になって依頼人のために頑張ろうとしている。
我が国の司法制度を担う大事な若人には、その真っ直ぐで清々しい姿勢を是非ずっと持ち続けてもらいたい。