朝、8時30分に人と会う約束をしていたので、
久しぶりに、事務所の近くにホテルをとった。
たまには違った角度から、街を見るのもいい。
下から見ても、横から見ても、上から見ても、同じ建物だが
見え方が違うと、まるで別のものを見ているようだ。
しかし、一方向からだけ見て、断定的に物事を論じてはならない。
それが、「群盲象を撫でる」である。
目の見えない人たちが象を触って、触った部分について、
象とは団扇(耳)だ、象とは木の幹(足)だ、
いやいや縄(尾)のようだ、管(鼻)のようだ
と評している。
部分部分は正しく理解しても、全体となると
一部分しか理解していないという意味である。
自分は一部分しか知らないのだと自覚しなければ、
全体を理解しようとすることができない。
「誰もが正しい。ただし、全体からすると一部だけ正しい」
ということを、覚知させるための諺である。
これが「無知の知」。
知らないということを、自覚しなければ真理を探求することはできない。
また、「木を見て森を見ず」という諺がある。
これは、「小さなことに心を奪われて全体を見通さない」事の戒めである。
いや、「全体を見通さない」…と能動的なのではなく、
「全体を見通せない」…と受動的な、能力不足を嘆く。
先の諺と、同じ意味で用いて構わない。
法律を糧にする職業をする人は、
大局的に物事を俯瞰しなければならない。
つまり、常に事件の全容を頭に想念しながら、
解決策を考えなければならないということである。
些末な事象に一喜一憂していては、正しい判断ができない。
私はこのことを、声を大にして言いたい。


